当会は、以前は「大阪錦蘭会」という会名で、戦前よりらんちう愛好会として活動していました。しかし1943年から1948年頃は、太平洋戦争の真只中でもあり、また終戦後の厳しい日本の状況の中で、錦蘭会は滅亡的な状態にありました。
戦前から錦蘭会の発展に尽力されてこられた井上梅吉氏は、終戦後の滅亡に瀕した会の状態を見て、錦蘭会を復興させようと古い役員の方々や会員に呼びかけ、また関西錦壽会からも有力者たちが加わり、関西でしっかりとした組織を作るために努力を尽くし、滅亡の危機を乗り越えました。現在の錦蘭会が存在するのは、60年以上も前に大阪錦蘭会と関西錦壽会の熱い気持ちを持った方々がいたからこそで在り、その熱い想いを引き継ぎ、会を発展させていくことは重要な使命であると考えています。
約40年前の錦蘭会の会報を紹介します。1972年発行の会報で、当時の会長は伊藤元雄氏で、相談役に中山豊吉、井上梅吉両氏が、顧問には宇野仁松、松井佳一両氏が名前を連ねています。当時、カラー印刷で会報を作るのは高額で大変な作業だったと思いますが、この頃からすでに会報作りには力を入れていたことが分かります。優等魚の中には故光田実前会長の名前も見られます。
約40年前の会報です。昭和47年10月1日 第53回品評大会の番付表。 |
品評大会優等魚の紹介ページ。光田前会長の名前や、紫錦会の高橋氏の名前も見られる。 |
『金魚伝承』創刊号より、故光田実前錦蘭会会長のインタビュー文を抜粋
「大きい会ほど権威、歴史があり楽しい。魚の美しさ、いかに良さを見出すか。その中には伝統という形がどうしてもついてくる。観魚会もそうでしょうし、伝統美を今の流行のように一朝一夕でヒュッと、ひっくり返して、例えば車のようにこれが新型ですよ、などと言ってはおれない。土台として今の形を保っている。その辺りを含めて伝統のある石川さんではないですけれど、そういった権威を感じる人もちゃんといるから観魚会に入会したい人がたくさんいるわけです。歴史の重さがあるからといってその会が栄えるわけではないのです。何十年といった歴史に僕はあまり意味があるとは思えないが、それを心の支えにして楽しんでいる人もいる。人によって魅力を感じるところは違いますけれども、究極行き着くところは夢を追う」ことですね。
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